瞑想ベリーダンスは鎌倉時代からあった!?

今日は私の瞑想ベリーダンスの理念、論理、がなんと鎌倉時代~くらいから活躍した浄土教、時宗の開祖一遍、一遍上人の踊念仏がまったく同じでびっくりしたお話です。
一遍、彼の詳しい事は今日は理念のお話にフォーカスしたいので彼の簡単な自己紹介はこちらのリンクでチェックしてね。→一遍
彼の踊念仏という哲学が私の成し遂げたい踊りの理念と合っていてとても感動しました。で、早速何が?という事で、ある本に出合ったのがキッカケでした。その本から引用します。

延暦寺東塔桜本の兵部堅者重豪が「踊りて念仏申さるゝ事けしからず」と、一遍を訪ねて難結したとき、一遍は「はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる」、跳ねたければ春駒が跳ね踊るように跳ねればよいし、踊りたければ踊って念仏すればよい、そうすれば春駒にのることはできなくても、仏の教えを会得することはできるでしょう、といったところ、重豪は「心こまのりしづめたるものならばさのみはかくやをどりはぬべき」、たけたつ心の駒をのりしづめるのが法の道である。欲望のままに動きやすい心を静かにおさえるのが道なのに、どうしてそんなに踊りはねる必要があるのでしょうか、といったが、それに対して一遍は「ともはねよかくてもをどれこゝろごま みだのみのりときくぞうれしき」、ともかく踊りはねたいという心の駒は思うざま跳ねおどらせばよいのだ。そこから得られる歓喜こそが阿弥陀仏の御法の声だと思えば嬉しいことなのだ、と答えている。

この二人のやり取りに対して

ここには身心を「静」の状態において仏を見ようとする重豪の立場と、身心を「動」にたかめることによって仏と一体化をはかろうとする一遍の立場の相違を知ることが出来る
と著者は書いている。


著者の説明で、さらに分かりやすくすると、以下の著でこの踊り念仏の理念が分かり易くなる。

気ままな心にわく感情や心にわく思いといった飛翔が、人を煩悩の虜にしてしまうというで一般の考えに対して、一遍はどのみち捨てきれることのできない煩悩であり情念であるのならば、むしろそれを燃えつくすほど燃えあがらせ発散させてしまうのが醇化の道はないだろうか、

そしてその踊って歓喜することを現代風に著者は・・

「人間には単純なリズムと単純なメロディの反復の中で一つの動作を繰り返していると、次第に興奮状態になり、さらに恍惚状態に入って、いつか、魂の抜けたような、いわゆるトランスの状態に陥るといった生理の傾向があった」(三隅著者の引用)から、時衆も心うずくままに、鉦をたたきながら「南無阿弥陀仏」と繰り返し名号をとなえ、思うざま足をはね。首を振り、体をゆすれば、興奮の末に我も忘れてエクスタシーの状態になる。こうした状態になった時を、踊躍歓喜といい、心は仏と一つになったという。
一遍 大橋俊雄 吉川弘文文館から

自己紹介にも書いていますが、これこそ!!わたしの思っている瞑想ベリーダンスであるし、私のパフォーマンスや踊りに対しての理念と行き着く先だと思っています。
しかも一遍の言うにはそうしたいからそうするという心から思う事が大事でそう思わないのに南無阿弥陀仏といっても身と心が一体にならない。というのも納得です。
私はダンスで思いっきり自己表現も目指しています。最近は自己のダークサイドをダンスで出して浄化しようと思い出さなければ内面にしまってても浄化されないんでは?と思ってダンスを通して自己のカルマ浄化を目指すのも目的です。出さなけりゃ~死に切れん!が私の思いであります。パフォーマンスは人に見せる事ですので、カルマを見せて皆に見てもらって浄化できるなんて!!なんて素敵な事。見せられた観客はある意味迷惑かもしれませんね笑。でも迷惑にならない様にそれを芸術に変えて魅せるように頑張ります~~!
そういえば、出雲阿国、(歌舞伎の開祖)も念仏踊りしてますよね?彼女も分かってたのかな?って思ったりして・・同じ思いでしてたらわ~~~お!すごい!!