ネガティブな感情を自己処理して
よく観察して 自制したりして
良くコントロールしていても
他人からその感情を受けてしまう時がありますね
そんな時は体のどこに受けましたか?
何!っと感情の反応をすぐにするのではなく
ネガティブな感情を自己処理して
よく観察して 自制したりして
良くコントロールしていても
他人からその感情を受けてしまう時がありますね
そんな時は体のどこに受けましたか?
何!っと感情の反応をすぐにするのではなく
皆さん!!
良く聞くこの言葉
私上手くなりたい!
これってどう自分で解決していますか? もちろんダンスなら人、先生に習う!ですが、
習っても上手くなってますか?
出来ていればいいですが、出来ていないのは理由があります。
先生の教え方も問題が!もちろんそれもあるかもしれません。しかし、どんなに先生が教え方丁寧にしても出来ないパターンがいっぱい。
今日は私の瞑想ベリーダンスの理念、論理、がなんと鎌倉時代~くらいから活躍した浄土教、時宗の開祖一遍、一遍上人の踊念仏がまったく同じでびっくりしたお話です。
一遍、彼の詳しい事は今日は理念のお話にフォーカスしたいので彼の簡単な自己紹介はこちらのリンクでチェックしてね。→一遍
彼の踊念仏という哲学が私の成し遂げたい踊りの理念と合っていてとても感動しました。で、早速何が?という事で、ある本に出合ったのがキッカケでした。その本から引用します。
延暦寺東塔桜本の兵部堅者重豪が「踊りて念仏申さるゝ事けしからず」と、一遍を訪ねて難結したとき、一遍は「はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる」、跳ねたければ春駒が跳ね踊るように跳ねればよいし、踊りたければ踊って念仏すればよい、そうすれば春駒にのることはできなくても、仏の教えを会得することはできるでしょう、といったところ、重豪は「心こまのりしづめたるものならばさのみはかくやをどりはぬべき」、たけたつ心の駒をのりしづめるのが法の道である。欲望のままに動きやすい心を静かにおさえるのが道なのに、どうしてそんなに踊りはねる必要があるのでしょうか、といったが、それに対して一遍は「ともはねよかくてもをどれこゝろごま みだのみのりときくぞうれしき」、ともかく踊りはねたいという心の駒は思うざま跳ねおどらせばよいのだ。そこから得られる歓喜こそが阿弥陀仏の御法の声だと思えば嬉しいことなのだ、と答えている。
この二人のやり取りに対して
ここには身心を「静」の状態において仏を見ようとする重豪の立場と、身心を「動」にたかめることによって仏と一体化をはかろうとする一遍の立場の相違を知ることが出来る
と著者は書いている。
第27回目 憂鬱な時に、リラックスバージョンベリーダンス
第28回目 元気の出るベリーダンス!
ダンスのセラピーをのちのち始めようかな、と思っています。 踊りながら皆さんの心の悩み体の悩みを解決ができたらと思います。 今私は実はドイツに住んでいるのですが、元々ドイツに来る前にカウンセラーの資格を持っていてここでダン … 続きを読む